ベルリンの壁は東ドイツ政府報道官の勘違いで崩壊した

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 1989年に起きたベルリンの壁崩壊は、当時の東ドイツ政府報道官の勘違いが引き起こした。「歴史上最も素晴らしい勘違い」とも評される。

 第二次世界大戦に敗れたドイツは、資本主義の西ドイツと社会主義の東ドイツに分裂し、首都だったベルリンも西ベルリンと東ベルリンに分裂した。ベルリンは東ドイツ側にあるため、東ドイツに周囲を囲まれた西ドイツの飛び地という格好で西ベルリンが位置していた。やがて、自由を求める東ドイツ国民が西ベルリンへ渡り、飛行機などで西ドイツに亡命する者が増えた。

 ベルリンの壁は西ベルリンへの流出を防ぐために、東ドイツ政府が1961年、西ベルリンを囲むように建てた約155kmの壁。東西冷戦の象徴とされる。

 1989年に入ると周辺国のハンガリーが民主化を果たし、東ドイツからハンガリーを経由し西ドイツへ亡命する国民が後を絶たなくなった。東ドイツ国内では改革を求め大規模なデモが行われ、次第に激化。沈静化しなければ国家の存続が危ぶまれた。

 これを受け、東ドイツ内務省で議論が行われ、旅券局長のゲアハルト・ラウターが出した意見を軸に旅行自由化の政令案が提出された。これまでの規制を大幅に緩和し、ビザとパスポートがあれば外国旅行を無条件で認める内容。背景には、当時の東ドイツ国民のパスポート保有率は4人に1人と低い上、出国ビザの申請には数日かかることもあり、一斉流出は避けられ沈静化も図れるという思惑があった。

 政令案は11月9日、共産党中央委員会で審議されたが、政府報道官のギュンター・シャボフスキーは定例の記者会見の準備のため途中で離席。午後4時、政令案は承認され、閣議決定を残すのみとなった。

 シャボフスキーは法令に関する報道発表用の資料を受け取り、記者会見の時間が迫っていたためその足で会見場へ向かった。報道解禁は翌日の10日午前4時とされていたが知らされることなく、法令の詳しい内容も把握しないまま記者会見は始まった。

 午後6時51分、イタリア・ANSA通信のリッカルド・エールマン記者が出国規制問題についての政府見解を問う質問をした。会見時点では法令は閣議決定が済んでいなかったが、決定済と勘違いしていたシャボフスキーは報道発表用の資料を手に、「東ドイツ国民はベルリンの壁を含むすべての国境通過点から出国が認められる」と回答してしまった。

 記者からはさらに「法令はいつ発令されるのか」と質問が飛び出すが、内容を把握していなかったシャボフスキーは平静さを失い、資料に盛り込まれた「出国ビザを遅滞なく発給する」「(同規制緩和を)直ちに発効する」の文字を見て咄嗟に「私の認識では『直ちに、遅滞なく』だ」と回答した。

 生中継で記者会見を見ていた東ドイツ国民はベルリンの壁に殺到。国境警備隊は何も聞いていなかったため検問所は混乱した。検問所ではビザとパスポートが必要だと断ったが顧みる者はおらず、その間にも群衆は押し寄せ、対応しきれなくなっていた。ボルンホルマー通りの検問所のハラルト・イエーガー中佐は検問所のゲートを開ける決定を下し、午後11時ごろ開放。夜半までには全検問所が開放され、28年ぶりに東西ベルリンを自由に往来できる状態となった。

 興奮のピークに達した国民はハンマーや建設機械を持ち込み、ベルリンの壁を壊し始めた。興奮は収まることなく、数日後には東ベルリン当局により正式に壁の撤去が始まった。

 これにより東ドイツ政府は、当初予定していなかったドイツ統一の交渉を西ドイツと開始。1990年10月3日の統一に至った。