江戸時代に清水の舞台から飛び降りた人の生存率は約85%

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 「清水の舞台から飛び降りる」とは、思い切って大きな決断をすることを表すことわざ。江戸時代、その言葉通り、実際に清水の舞台から飛び降りた人が何人もいた。

 清水の舞台から飛び降りた人の記録は、清水寺や門前町の管理記録が書かれた「清水寺成就院日記」にしっかりと残されている。記録を始めた1694年から1864年(うち欠落が計23年分)で235件。中には1人で2回飛び降り、2回とも助かった若い女性もいた。そのうち34人が死亡し、生存率は約85%と意外と高い。

 しかし、当時は舞台の下は木が茂っており、地面は軟らかい土だったために衝撃が少なかったが故の数字であり、現代ではそうもいかないだろう。清水の舞台の高さは13メートル。4階建てのビルに相当する。

 飛び降りるというと自殺のためと考えてしまうかもしれない。だが、生存者の証言では「病気を治したい」といった願いが動機として挙げられた。江戸時代、観音様への厚い信仰心から、観音様に命を預けて飛び降りれば願いが叶うという迷信が広まっていたためだ。さらに、傘をさして飛び降りると恋が成就するという迷信もあり、これを動機に挙げる人も少なくなかった。

 最初に清水の舞台から飛び降りたのは、鎌倉時代の『宇治拾遺物語』に登場する検非違使、忠明とされる。忠明は若い頃、京都の若者たちと口論になり清水の舞台まで追い詰められたが、蔀を脇に挟んで舞台から飛び降りたところ、蔀が風に吹かれ、谷底に鳥がとまるように静かに落ち、助かったという。ただ、この話が信仰に繋がったかは定かではない。

 後を絶たない飛び降り事案をやめさせようと、京都府は1872年に禁止令を出した。舞台の周りには飛び降りを防ぐための囲いが設けられ、次第に沈静化した。